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哲学における『悪魔の証明』は正当な推論である。




議論ではよく、「悪魔の証明は不当である」という批判を聞きます。『悪魔の証明』とは、「ある事実が存在しないということが証明されないならば、その事実はあったといえる」という形の推論です。最近の有名な例として、ブッシュ大統領がイラクに大量破壊兵器があると語ったとき、ブッシュ側が悪魔の証明を使ったという批判がありました。「イラクが大量破壊壁を持っていないという完全な証明がないなら、破壊兵器を持っている」と言ったブッシュを批判したものだと思われます(ただし実際にブッシュがどのように語っていたかは分からないので、形式上このように考えていたとします)。

この推論への批判には2種類のものが混ざっています。 1つは、ある事実が存在しないということは事実上不可能なので、それを要求することは不当だということ。2つ目は、「存在しないということが証明できなければ、存在する」という形が不当であるということ。
この2つが混ざっているので分かりにくいのですが、後者は単純な論理的な間違いなので、今回は前者の、「存在しないということが事実上不可能な場合に立証責任を要求することは不当である」という部分に注目してみます。

こういった形の『悪魔の証明』批判は、実は常に使えるわけではありません。むしろ実際上あるいは実務上の問題にしか使えないと言ったほうが良いと思います。そして批判の使い方を間違えると、逆に詭弁としての機能を持ってしまう危ういツールだと思います。

ブッシュの例の場合、ブッシュの悪魔の証明が批判される理由は、イラク側からすると事実上大量破壊兵器が存在しないことを証明できないからです。たとえばアメリカは調査会によるイラクの大量破壊兵器調査を完全ではないと言って拒絶しました。さらに精密な調査には予算的技術的に現実的な方法がない可能性があります。その場合は、悪魔の証明に対する批判は正当だと言えます。
ただしこの例で言う大量破壊兵器が存在するかしないかというのは、哲学的な真理とは別であるということに注意が必要です。ブッシュ側は別に真理はどうあるかを考えているわけではなく、現実的な意味で、あると言えるかないと言えるかを考えていたということです。
悪魔の証明』よる批判というのは、あくまで実際上証明が不可能に近い場合の、現実的な妥協が必要な場合にのみ成立するということします。何かが存在しないという証明は、現実の世界では多くの場合難しいので、存在しないと主張する側には立証責任はないしているということです。

しかし原理的なことや真理について語る場合は違います。ここで原理、真理というのは、「絶対に〜は存在しない」という主張だとすると、悪魔の証明は正当です。つまり立証責任は「〜が存在しない」という側にあります。これは考えてみれば当たり前であって、原理的に「〜は絶対に存在しない」と言った場合、それを立証しないならば、言えるのは「存在しないとは必ずしもいえない」や「存在しないかもしれない」であって、「存在しない」ではありません。

ですからもし誰かが「〜は存在しない」という主張を批判して、「あなたは存在しないという主張を証明していない」と言ったとして、それに対して「それは悪魔の証明だから不当だ」と答えるのは間違っています。そこからさらに、「悪魔の証明は不当だから、立証せずとも〜は絶対に存在しないといえる」と主張したとしたら、これはまさに間違った推論を導いたことになります。

つまり悪魔の証明だと言って批判できるのは、あくまで「現実的には」存在しないという立証が困難な場合であるということです。真理に関することなど、現実的な妥協を許さない主張をするときには、当然「存在しない」ことは立証せねばなりません。

ここからさらに考えを進めると、悪魔の証明が「存在しない」という命題だけを特別扱いして立証責任を回避している理由はないように思います。
むしろ「存在する」という主張の方が、実際には証明が困難な場合があると思います。たとえば宇宙人の存在はどうでしょうか。宇宙人が存在しないという主張を支持するための根拠は宇宙の不毛な星を観測するごとに高まります。もちろん一度でも宇宙人がいれば存在することになるという意味で量的には「存在する」という主張は有利ですが、「現実的」、「実際的」には宇宙の広さから言って、宇宙人の存在を示す根拠のほうが見つけるのが困難に見えます。

いずれにしても、『悪魔の証明』という言葉が法律の所有権の問題から来たように、これは実際的な問題への対処として使われるものなので、哲学上の原理としてはほとんどの場合使えないものだと思います。
したがって哲学の議論において、立証責任を「存在する」の側だけに置いたり、「存在しない」という主張の批判側に向けるということも、妥当ではないと思います。

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