日本語と英語でネットサーフィン。

日本語や英語でネットをしてるうちに出会ったものを紹介していきます。

いかに修養を悪用するか。




修養をすることの本来の意義は、自分自身に対して厳しく律することで、他人や社会のためになることをするということだと思います。そういう意味で修養を一概に否定することはできません。部活動や稼業の中で精神を鍛えられるという経験をした人も多いのではないでしょうか。
しかし現実には修養の形式や言葉をマネることで、相手をおとしめたり自分の利益だけを求めるということがあるように見えます。だからと言って修養のマネをすることがいつでも悪いわけではないと思います。それをすることで組織をうまく回したり、人と親密になれるということもあるからです。とはいえ修養を悪用することは滑りやすい坂道のようにかなり危うい行動だと思います。

それを批判するのも一つの手ですが、ここではどうやれば修養の形をマネて自分の利益を誘導し相手をおとしめることができるかを考えます。いわば犯人の側から見てみます。

まず第一は、自分より立場の弱い人を無理矢理にでも弟子に見立てます。本来弟子というのは自分から師に教えを請うために来るわけですから、自由意思で弟子となっているという前提があります。しかし修養の形をマネて悪用するためにはその前提を崩し、ただ同じ組織に居合わせた立場の弱い他人を弟子とみなします。

次に自分が悟りを開いた師のマネをします。悟りを開いているわけですから間違いを犯すことはありません。
これも本来ならば、厳しい修行の中で考えられるあらゆることを試し、誰よりも多くのことを知った末に、師にあたる人から免許皆伝をいただいて自分自身が師になることができるはずです。しかしその過程はすべて飛ばしてかまいません。いつの間にか自分が師になったという設定で話せばいいということです
間違いがあったとしても、それはその意図が理解できない弟子の問題として語ればいいし、疑問や質問に答える説明責任も回避できます。

その次は実際に修養を悪用して他人を動かします。立場の弱い人に修行のマネごとをさせるのです。本来の修行というのは師がプログラムを組んで、そのすべての修行は必然性を持つはずです。
都合のいいことに、弟子が修行をやり始めたときにはその意義が分からない場合が多いのです。弟子が修行を始めたばかりのころはまるで全く役にも立たない無意味なことをやらされたと思うが、後になるとその意義が分かる、確かにあれは必然であったのだと知る、そういう物語の形があります。それを利用します。
この物語の形を利用すれば、どんなにつまらないことやどんなに意味のないこと、どんなに低俗なことでも修行だという名目で弟子にさせることができます。たとえばトイレ掃除やら使いっ走り、一発芸やプライドを破壊するような儀礼などです。もちろんこういったことだけをさせらるなら、笑い話にもなるかもしれませんが、不法労働やボランティアを名目にした無賃労働、そしてオウムの行ったようなテロリズム、こういう反社会的なことを修行の名目で行うようになったとき、これは大きな社会悪になります。

ここまで書いてきて、これはほとんど冗談やコントのように見えます。しかし実際にこういうことが起こっているのではないでしょうか。修養をマネて悪用するといってもこれは言葉だけの物だと思うかもしれませんが、言葉の問題というのは表面上見える以上に重要なことだと思います。
最も重要なのは、こういう冗談のような言説でも、一般に広まると常識的な言葉として使えてしまうと言うことです。たとえば部活動や会社で師匠の振りをして叱責を行うというのはごく普通のことです。そしてこれに反駁する言葉とというのは反抗とか若さゆえの青臭い情熱のような、こちらも冗談のような意味にしかなっていないように見えます。このような言葉だけしかないとすると、社会的に損失のある行動が、どう問題なのかを伝える前の段階で、意味が遮断されてしまうということ、それが問題だと思います。
それを回避するためには、新しい言葉のつながりを作ることで意味の舗装をすればいいというのが一つの答えだと思います。そういう意味で、この記事で紹介した修養のマネのようなことは、良くて冗談、悪く言うと社会悪だと普通に語れるようにするという方向性がいいと思います。