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他人の『甘え』を指摘できるのは誰か。意味分析と安全管理。




(1) 日本で使われている価値的言説の多くは修養や儒教から派生した物が多いようです。今回はその中でも『甘え』の意味と運用上の条件を決め、どのような状況で使うことができて、どのような状況では不適切なのかを考えていきたい思います。

『甘え』という言葉は、相手を叱責する、あるいはむしろ厳しい言葉で励ましたりすることに使われています。本来の使い道として、師匠と弟子の関係を想定して使われていることは明らかだと思います。
しかしながら、現在の日本においては、『甘え』という言葉が、実際の修行や修養以外の場面でたくさん使われているのを目にします。たとえば部活動、仕事、社会問題、親子関係などです。
ここでは、このような場面で『甘え』という言葉を使うことが適切かどうか、また破滅的な結果を招かないかどうかの安全面での分析をしてみます。


(2) まず『甘え』の定義です。『甘え』が存在するということは、その人の精神や身体にはまだポテンシャルが残っていることを意味します。そしてポテンシャルが残っているにも関わらず、精神や身体の力を出し切ってはいないという状態ということにします。

ここでひとつの場面を想定します。例えば山奥で師匠が弟子に修行を課しているとします。弟子がへとへとになって休もうとすると、師匠が弟子に向かって「それは『甘え』だ。修行を続けなさい。」と語ったとしましょう。
ここでまず気になることは、師匠はどうやって、弟子に『甘え』があると知ったのかということです。他人である師匠が、弟子の精神と身体のポテンシャルの限界を知ることが果たしてできるのでしょうか?

(3) 師匠が弟子のポテンシャルを知る一番簡単な方法は、弟子からの自己申告です。つまり弟子が「ぼくはもう無理です。」と自分で語ったならば、それを信じてポテンシャルが限界にあると認めることです。しかしながら、おそらくほとんどの場合、そのような自己申告を師匠は認めません。なぜなら「もう無理です。」と語ること自体に、心の『甘え』があるという論理が使われるからです。

では他に弟子のポテンシャルの限界を知る方法があるでしょうか。テレビや漫画の中では、師匠と弟子が長い間共に暮らし、共に修行することで、弟子の自己申告によらずに、弟子の細かな変化から、弟子の甘えた心を見分けるという設定が多いようです。ですから、師匠が長い間弟子を観察することで、弟子の状態を知ることはありうるかもしれません。

他の方法としては、科学的、医療的な方法で知ることできそうです。精神面では、心理カウンセリングの知見を利用したり、脳の活動を見ることが考えられます。身体面については、米軍のトレーニングでは、兵士がランニングでへばったときに血液酸素飽和度を測ることで、身体的なポテンシャルが残っていることを見分けているようです。

(4) 上で挙げたやり方が弟子のポテンシャルの限界を知る方法のすべてならば、このような方法を取っていない状況では、そもそも『甘え』の認知が不可能だということになります。例えば会社や部活動、家庭、社会批評において師匠に当たる人たちは、目下の人の『甘え』を認識して、無理をさせることが許される状況なのでしょうか。

会社は多くの場合ダメだと思います。なぜなら上司と部下の関係は、同じ時間を過ごすことが多いとはいえ、ほとんどの場合部下の機微を見抜くほどではないからです。最近では企業で心理カウンセリングなども行われていますが、精度はとても低いと思います。部下が無理だと訴えるのを『甘え』だとして無視しつづけることが許されるとしたら、最悪の場合過労死や鬱にかかる危険があります。従って、このような場合の職場での過労死などは『甘え』の運用の失敗という評価付けをすることが可能だと思います。

部活動も職場とほぼ同じような結論になると思います。部活動中に死亡する例や、相撲部屋のようにしごきと称した暴力で死ぬことがあります。これらも、『甘え』の運用の失敗と見ることができると思います。

家庭でのしつけの場合は、『甘え』を認識することが可能かもしれません。なぜなら親子は多くの時間を過ごし、栄養や体力、心理状態などを子どもの機微から知ることができうるからです。さらに親は子を保護するという責任を問われる制度は充実してきています。極端なしつけをしようとする親に対しては、法や行政の介入も認められてきています。それでも子どもが親に殺されたり、虐待されることが多いようですが、そこで『甘え』ているからしつけをしたという言い分は、あまり認められなくなっているように思います。

社会批評において、『甘え』を認識することはほぼ完全に不適切だと思います。例えば、「最近の若者は甘えているから職がない。努力が足りない。だから支援する必要はない。」と言うように、社会的な問題に対して『甘え』を使うことがあります。この場合、若者一般の精神・身体のポテンシャルを測ることは不可能であるし、失業のようなマクロの問題を、個人の『甘え』で説明することは不合理です。したがって、このような形の『甘え』は少なくともまじめな論考としては使うべきではないし、これを使っている人は誠実に社会問題に取り組んではいないのではないかと疑うこともできます。

(5) 残念なのは、『甘え』という言葉を使っている人たちは、師匠のキャラクターを演じているので、上のような運用の失敗を指摘すると、メンツを壊されたと思われやすいことです。しかしもし師匠に値する人物ならば、自身の間違いや危うさを誠実に受け止めるでしょう。
師匠の態度だけをマネた偽物を、どのように対処するかは次の機会に書くことにします。ここでは、本当に師匠に値する人と、偽物を見分ける評価軸として、『甘え』にひとつの評価付けをしたということに留めたいと思います。
ただし、『甘え』に対する適切な評価を多くの人が持って、それを言葉として使えるようになれば、偽物の師匠の暴走を監視したり事前に行動を防ぐことも可能だと思います。