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根拠はなくても仮定がある。日本人が議論できるようになるためには?




議論において根拠を求めたり、根拠を元に話すということは重要なことだと言われています。しかし根拠は常に必要な訳ではないし、時には根拠を求めることが議論を壊す結果にもなります。
たとえば何かを主張する相手にしつこく「その根拠は?」と尋ねることで、相手をやり込める方法があります。根拠を求めることが良いことだとするなら、こういった方法も良いことだと言えるのでしょうか。
さらに相手の主張を批判しようとするとき「その主張には根拠がない」と反論する方法がありますが、この批判の方法は適切でしょうか

そもそも根拠というものは、ある命題を他のもっと確実性の高い命題につなげるために使われます。それによって自分の主張したい命題の確実性を高めることができます。
しかし論理的なものではなく事実問題について考えたとき、どんな主張も仮定なしに完全に根拠づけることはできませんたとえば物理学でも実験によって理論が正しいかどうかを確かめるのですが、すべての状況で実験をすることができない以上、物理学の理論が普遍的だと言う主張には穴があります。
つまり物理学のような確実性の高いものでさえ、根拠を求めつづければ答えることができないところが出てくるわけですから、僕たちが適切に議論するためにはどの程度の範囲で根拠を求めるかという視点が必要になります。根拠を求めるという運動はどこかで打ち止めされなければいけません。

その一方で、命題に確実性を持たせるためには仮定を明示した上で、仮定のもとでの論理的な結論を導くこともできます。これは「〜と仮定するなら〜なる」という形の推論です。たとえば論証に数学を使う場合は、数学的な構造が事実だと仮定した上で、論理的な結論を導くために使われることが多いです。こういった仮定からの論理的帰結を導く方法は、経験的な根拠を挙げるよりも確実性であり、必然性を伴っています。なぜならあらかじめそれが仮定と明示しているので、たとえ仮定としたものが事実ではないことが分かったとしても論証は否定されないからです。だから仮定からの論理的帰結は、事実問題を考えないようにして論理だけを扱うことができるわけです。

つまり主張の確実性を持たせるためには、根拠を求める方法と、仮定付きの論理を求める方法があるということです。
仮定からの論理的帰結という方法がある以上、多くの場合「根拠がない」ということから主張を真っ向から否定することは不適切だと思います。これができるのは、相手が「これは無条件に正しい主張だ」と語ったときに限られると思います。この場合は無条件ということなので、仮定というものを自ら放棄しているので、仮定からの論理的帰結が使えない。したがって確実性を持たせるには根拠を示すという道しかないわけですから、根拠がないという批判は的を射ていると言えるわけです。

しかし僕たちが議論するとき、上に書いたような仮定からの論理的帰結の意義が本当に共有されているでしょうか。議論をしている最中に実験や新しい事実を調べることができない以上、議論でできることのほとんどは論理を使った確証であって、事実の確証ではないと思います。したがって議論においては根拠よりもむしろ、ある仮定のもとでどういう論理的な結論になるかを、いろいろな仮定の場合で考えるということが中心になります。そのような状況の中で、確たる根拠を言わないと主張が否定されてしまうとしたら安全な命題はほとんどなくなってしまいます。そうなると、何かを主張しようとする人はどんなときでも自分の主張を否定されるかも知れないというリスクを背負わされます。どんなときでも否定されるかもしれない状況の中でわざわざ何かを主張しようとする人はそれほど多くないと思います。

よく日本人は議論ができないと言われますが、日本人の中で仮定からの論理的帰結という方法の意義が共有されていないとしたら、それが一つの原因と言えるかもしれません。もしそうなら、この意義と方法論を共有するように仕向ければ、議論が可能になるための道が開けるかも知れません。