日本語と英語でネットサーフィン。

日本語や英語でネットをしてるうちに出会ったものを紹介していきます。

タグという発明・その思想的な意味





インターネットはいかに知の秩序を変えるか? - デジタルの無秩序がもつ力インターネットはいかに知の秩序を変えるか? - デジタルの無秩序がもつ力
(2008/04/08)
デビッド・ワインバーガー

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「インターネットはいかに知の秩序を変えるか? - デジタルの無秩序がもつ力」デビッド・ワインバーガー(著)を読んでいて、普段使っているtwitterはてなブックマークの思想的な意味というものが少し分かった気する。そこで本の内容も踏まえてそれについて書いてみた。

今やネットでは当たり前の存在となったタグ。僕たちはデータをアップロードしたりお気に入りにするとき、データを分類するのにそれぞれの人が自分の解釈でデータにタグをつけて公開している。

実は少し昔まではこういった形でのタグというものは存在しなかった。デジタル以前は物理的な紙や看板、印などでタグをつけていた。たとえば図書館の棚は項目ごとに分類されている。あるいはスーパーマーケットでもどの商品がどこにあるかをある種の分類で分けている。
しかし物理的な物というのは一つの場所には一つの物しか置けないし、複製を思うがままにすることができない。さらにタグ同士を自動的につなぎ合わせて編集することもできない。結果、分類のしかたは一つか多くても数種類の物に限られてしまう。当たり前に聞こえるかもしれないが、スーパーマーケットでの商品の配列は、小学生の女の子が買いに来たときも年寄りのおばあちゃんが買いに来たときも同じ。客に合わせて店の配列が変わることはない。図書館もしかり。
デジタル以前の情報整理にはこのような物理的な制約があった。個人個人に合わせてのオーダーメイドではなく、たった数種類の分類の仕方ですべてを表すしかないという状況であった。
だからデジタル以前の思想の世界でも、情報の分類やカテゴリー分けを個人によって変化させるのではなく、唯一無二のたった一つの分類基準でまとめるべきという考えが主流であった。これは間接的に、並び方にこれといった意味のないアルファベット順で百科事典をまとめるのか、トピックごとに百科事典をまとめるかという方法論の違いとしても見て取れる。

現在インターネットで使われているタグという発明は、情報の分類をカテゴリーとその階層によるのではなく、ばらばらのままでそれぞれの個人の頭にある分類同士をリンクさせることで整理するという方法をとる。新旧の分類方法の違いはWikipediaとブリタニカ百科事典、家に眠っているアルバムとTumblrを見比べればはっきりする。


なぜ図書館でしゃべってはいけないのか。図書館を人的ネットワークの場にするには?




ツイッターやフェイスブックなど、最近よく話題になっているのはつながりという情報資源の重要性です。ネットワークとしてのつながりは、単に個別の人を集計した物より大きな経済的、情報的な価値を持つという意味で、規模の経済性、あるいは創発を生むなどと言われます。

そこで思うのですが、どこの地域でも存在する図書館はあると思いますが、図書館というものはネットワークという意味であまりにも活用されていないように見えます。図書館に行けば無料でいつでも本が読める、とそこまではオープンな情報へのアクセスという意味で良いのですが、しかしそこまでなのです。僕たちが図書館に行ってやることと言えば、本を探して読んだり借りて帰るくらいです。そこでは情報にアクセスして帰って行くというサイクルしかないように見えます。形としてはハブと周辺ノードが一対一でつながっているだけでノードのつながりがない状態です。いわばネットでブログをたどっていくようなものです。

ここで言いたいのは、自分と同じような情報を探している人たちがネットではなく現実に集まっているのが図書館なのに、そういった人同士のネットワークがほとんど形成されていないということです。自分が何かの本を探して棚を見回しているときに、別の人が同じ棚で本を探しているというのはよく見かけることです。するとその人と自分は同じような情報を探している可能性が大いにあります。その棚が哲学やら鉄道のようなマイナーなジャンルなら、そういったマイナーなジャンルの知識を持っている人がすぐ隣にいるわけです。大学などいかなくてもすぐそこにいるわけです。しかし今の図書館ではその人に話しかけることも、その人がどのような関心と情報を持っているかを知ることもできません。

フェイスブックとグーグルの違いが最近話題になりますが、そのうちの一つはアルゴリズムでの検索と実際に見知った相手にものを訪ねたときと、どちらのほうが有用で求めた情報が得られるかという問題があります。もしかしたらグーグルのようなアルゴリズムでの検索よりも、フェイスブックのような顔見知りの相手との会話のほうがより精度の高い情報が得られるのではないかというようなことです。
ネットを使うかどうかは別にしても、検索だけではたどりつくのが難しい情報があるのは確かです。特に辞書的な情報ではなく、推論に関する情報は検索ではたどりつくのが難しいように思います。なぜかというと、推論というのは多くの場合、単語として表現するよりは文章のつながりで表現されるので、単語をつなげた検索だけでは見つけにくいからだと思います。そういうものこそ、話し合いや議論を通して知ることの意義があります。

そういう意味で、現実の空間で同じようなことに関心を持つ人が集まる図書館というのはネットワークの資源の宝庫のはず。それを活用できていないとすれば、どのようにすれば活用できるのか。
一番簡単なことは、同じ棚を見ている人に話しかけるということです。これは図書館ではしゃべってはいけないという規律に違反します。では規則を変えて図書館でもしゃべっていいことにすればどうか。僕が思うには、たとえしゃべってもいいという許可が出ていたとしても、見ず知らずの人に話しかけるというのは今の日本の現状では難しいんじゃないかと思います。
ではいきなり話しかけるのが難しいとしても、人とコンタクトを取る機会を作ることができないか。アマゾンにある機能と同じですが、ある本を借りた時に、この本を借りた人は他にどんな本を借りているかを表示するというのはどうか? もしくは任意で本にバーコードなどのタグをつけて情報としてツイッターやブログのURLを貼り付けるとか。もっとアナログでいいなら本棚ごとに掲示板をつけて、そこに貼り付けられるようにするというのはどうか。

とにかく今の現状では、特にマイナーなものに関心のある人がコンタクトする手段がネットに限定されすぎているように思えます。やはり現実に話し合うのと発信された情報を読むだけでは推論の情報について差が出るので、そこをなんとかできないかと思っています。


差別を分類する。事実問題とカテゴリー問題。弱者は誰か。




お誕生日会。片腕しかない障害者に片腕だけを通すTシャツをプレゼントしたとしたら、これは差別になるのか。
差別という言葉は強力なわりに使われ方が曖昧で、いろいろな観点がごちゃまぜになっている。差別という言葉が混乱していると、本来は非難すべきでない相手を非難したり、詭弁のための道具になったりする可能性もある。そこで大きく分けて2つの観点に分けることができるんじゃないかと考えてみました。

一つは、根拠のない偏見への非難としての差別。この形の差別に関しては、前世紀では黒人は白人より知性が劣っていると考えられていたという例がある。しかし考慮しないといけないのは、当時の状況では結果としての黒人と白人の知識には確かに違いがあったということ。現在ではその原因は、教育程度や社会的状況から来るものであって、「もともとの」知性に違いはないとされている。しかし当時は教育や社会的階層からの影響と本来の知性を明確に区別する手立てがなかったとも言える。黒人はそれを徐々に証明しただけかもしれない。

ここで分かるのは、黒人は知性が低いといった考えは根拠がない偏見だと言うためには、科学的事実というものがなくてはいけないということ。しかし最近ニュートリノが光速を超えたかどうかの話題があったように、科学的事実自体が更新されたり変わっていくことがある。
だからこの方向で差別を定義するならば、科学的事実を最大限尊重しなければならないし、そこに不確実性や変更可能性があるならば、それも甘んじて受け入れなければいけない。たとえば黒人と白人には大きな意味での知性の違いはないかもしれないが、今後の科学の進展によっては、数学能力や文学的能力のようなプロファイルとしての違いはあるかもしれない。その時には違いがみとめられたことを受け入れる必要がある。
また知性のことで言うならば、本当にクジラやイルカに知性があるのかということも今後の科学の進展にゆだねられる。

もう一つの観点は、区別すべきではないカテゴリーによる分類という意味での差別。この場合は事実がどうであるかよりも、このカテゴリーで人を分類してはいけないという取り決めによる。男性と女性には体力において明確に違いがあるが、それを元に職業選択を制限してはいけないというのもその一つ。

実はこの観点を科学的な事実から導く方法もないわけではない。女性と言ってもばらつきがあるので、すべての女性がすべての男性に体力で負けているわけではなく、一部は男性を上回っている人もいる。事実としてこういうばらつきがあるので、女性は体力がないというカテゴリーで考えてはいけないとすれば、カテゴリー分けの問題は科学的事実の問題となる。
しかしこの考え方は万能ではない。科学的事実としても平均値としての差があるので、女性は平均的には体力がないと言えるし、女性と男性以外のカテゴリーではそういうことも通用しないことがある。たとえば重度の知的障害者はどうあがいても健常者といえる人より知的な能力で下回ることがある。こう考えるとばらつきを考えても明確に差がある場合がある

このようにカテゴリーを考えるにはどうしても科学的事実だけでは無理なところがある。そこで議論や定義づけから考えるわけだが、そこではいわゆる「誰が弱者なのか」問題が出てくる。
アイヌのことを例にすると、一方ではアイヌを日本人と対等に扱わないことが差別と言われるが、もう一方ではアイヌ文化を保護しないことが問題となったりする。この2つを両立させるという解決策があるかもしれない。しかし現実的にはどちらかが優先される結果となるでしょう。
そしてさらに重要なことはその結果「日本人はアイヌを差別している」と言われることがあるということ。このとき、明らかに日本人とアイヌというカテゴリー分けがなされていて、それを元に一方のカテゴリーを非難している。
他にも日本は単一民族だというとアイヌを無視していると言われるが、アイヌ民族自体が本当に単一のものと言っていいのかという問題もある

こういったカテゴリー分けの混乱は、どちらがどちらを非難する権利があるかという闘争の場となる。いったい誰が弱者なのか。強者だと見なされて差別だと非難される側が弱者なのかもしれない。「日本人は韓国人を差別している」という言葉は、そういう意味で簡単に使うべき言葉ではないと思います。

ではどうすればこの問題を解決できるか。その答えは、作るべきではないカテゴリーというカテゴリーを作るのではなく、常にカテゴリーというものを疑って考えを更新する余地を持つという、リベラルの基本理念にあると思います。あらゆる可能性を排除しないということ、常に権威を疑うこと。この観点からすると、「弱者」と「強者」、「被差別者」と「差別主義者」の区別自体を絶対視しないで、常に状況に合わせて変動させなければいけません。
このことから考えると、現在の一部の人権活動家はまずいことをしていると言えます。弱者救済という名目で、ある特定の人を弱者というカテゴリーで固定しているからです。さらにどんな行動を差別と呼ぶかを弱者自身の不快感や気持ちで定義するということも実際には多い。
その結果、弱者利権が生まれてしまったり、「差別主義者」と言われて人格を社会的名誉を傷つけられている人は、ほとんど支援されていないように見えます。これを逆差別というのではなく、これが言葉通りの意味で差別だと言えると思います。

一番最初に書いた例に戻ると、片腕しかない人に片腕のTシャツをプレゼントすることは、事実問題として片腕がないので、根拠のない区別ではない。そういう意味での差別とは言えない。ではそういう風に障害者と健常者という区別をすること自体を非難するならば、差別と言える。Tシャツを受け取った側が不快になったかどうかで差別を定義することもできるが、これは「弱者」という強力なカテゴリーを使ったものだといえる。なぜなら現実的には逆は無理だから。


ブログの記事、バランスより量かな、と。




ブログの記事を科学関連と哲学関連でバランスを取って、どちらかが多いともう一方の話題の記事を入れようとかしてたんですが、そうこうしてるうちに哲学関連の記事で投稿していないのが20個くらいに貯まっちゃってました。よく考えるとこの2つの話題が同じ分量で書ける道理はないですよね。
そういうわけで、書けるはずのことを貯めて更新をしないよりは、哲学関連に傾倒しててもとりあえず記事を投稿したほうがいいかなと。そういうことなので、哲学関連の投稿が一時的に多くなっていても、別に科学関連を忘れている訳ではないですので。


いかに修養を悪用するか。




修養をすることの本来の意義は、自分自身に対して厳しく律することで、他人や社会のためになることをするということだと思います。そういう意味で修養を一概に否定することはできません。部活動や稼業の中で精神を鍛えられるという経験をした人も多いのではないでしょうか。
しかし現実には修養の形式や言葉をマネることで、相手をおとしめたり自分の利益だけを求めるということがあるように見えます。だからと言って修養のマネをすることがいつでも悪いわけではないと思います。それをすることで組織をうまく回したり、人と親密になれるということもあるからです。とはいえ修養を悪用することは滑りやすい坂道のようにかなり危うい行動だと思います。

それを批判するのも一つの手ですが、ここではどうやれば修養の形をマネて自分の利益を誘導し相手をおとしめることができるかを考えます。いわば犯人の側から見てみます。

まず第一は、自分より立場の弱い人を無理矢理にでも弟子に見立てます。本来弟子というのは自分から師に教えを請うために来るわけですから、自由意思で弟子となっているという前提があります。しかし修養の形をマネて悪用するためにはその前提を崩し、ただ同じ組織に居合わせた立場の弱い他人を弟子とみなします。

次に自分が悟りを開いた師のマネをします。悟りを開いているわけですから間違いを犯すことはありません。
これも本来ならば、厳しい修行の中で考えられるあらゆることを試し、誰よりも多くのことを知った末に、師にあたる人から免許皆伝をいただいて自分自身が師になることができるはずです。しかしその過程はすべて飛ばしてかまいません。いつの間にか自分が師になったという設定で話せばいいということです
間違いがあったとしても、それはその意図が理解できない弟子の問題として語ればいいし、疑問や質問に答える説明責任も回避できます。

その次は実際に修養を悪用して他人を動かします。立場の弱い人に修行のマネごとをさせるのです。本来の修行というのは師がプログラムを組んで、そのすべての修行は必然性を持つはずです。
都合のいいことに、弟子が修行をやり始めたときにはその意義が分からない場合が多いのです。弟子が修行を始めたばかりのころはまるで全く役にも立たない無意味なことをやらされたと思うが、後になるとその意義が分かる、確かにあれは必然であったのだと知る、そういう物語の形があります。それを利用します。
この物語の形を利用すれば、どんなにつまらないことやどんなに意味のないこと、どんなに低俗なことでも修行だという名目で弟子にさせることができます。たとえばトイレ掃除やら使いっ走り、一発芸やプライドを破壊するような儀礼などです。もちろんこういったことだけをさせらるなら、笑い話にもなるかもしれませんが、不法労働やボランティアを名目にした無賃労働、そしてオウムの行ったようなテロリズム、こういう反社会的なことを修行の名目で行うようになったとき、これは大きな社会悪になります。

ここまで書いてきて、これはほとんど冗談やコントのように見えます。しかし実際にこういうことが起こっているのではないでしょうか。修養をマネて悪用するといってもこれは言葉だけの物だと思うかもしれませんが、言葉の問題というのは表面上見える以上に重要なことだと思います。
最も重要なのは、こういう冗談のような言説でも、一般に広まると常識的な言葉として使えてしまうと言うことです。たとえば部活動や会社で師匠の振りをして叱責を行うというのはごく普通のことです。そしてこれに反駁する言葉とというのは反抗とか若さゆえの青臭い情熱のような、こちらも冗談のような意味にしかなっていないように見えます。このような言葉だけしかないとすると、社会的に損失のある行動が、どう問題なのかを伝える前の段階で、意味が遮断されてしまうということ、それが問題だと思います。
それを回避するためには、新しい言葉のつながりを作ることで意味の舗装をすればいいというのが一つの答えだと思います。そういう意味で、この記事で紹介した修養のマネのようなことは、良くて冗談、悪く言うと社会悪だと普通に語れるようにするという方向性がいいと思います。


自己主張とは協力するということ。2




前回の記事の補足として書きます。

自己主張というのはソースを明らかにした情報開示だということでしたが、ここから市場経済システムと似たメリットが生まれます。
市場経済というのは人がそれぞれ何を好むかという順序を、お金から判断して集計していき、人々の好みを最大限生かすように物を分配していくシステムです。現実的な問題として、お金や価格が本当に人の好みの順番を表しているかという疑問がありますが、とりあえず好みに順序があってその情報がお金として集められるならば市場システムは最も効率が良いものと言えます。

自己主張をするということは、自分の好みを明示するという意味で、市場経済システムに似ています。実際、飲み会などで好きな飲み物を頼めずに全員がビールで乾杯などしていることはいわば小さな計画経済です。このような時、コーラが飲みたい人までビールを飲むと言うことは資源の分配として非効率でしょう。もちろん飲み会の話は小さな問題なので、ただの文化の問題として我慢するのもありかと思います。
しかし選挙や組織の方針の決定の場でも同じようなことが起きるとすると、それは社会に関わる問題だと思います。本来全員に指示されているはずの人がトップに立たたないというようなことが起きると、結局は歪みが出てきますから、組織の意思決定が一元的ではなくなります。さらに言うとトップは対外的にも情報を開示する立場なのに、それが実体的なトップではなかった場合、組織内部に情報が隠されますから腐敗のもとになります。

このように考えると自己主張を行うというのは情報開示という意味で社会に貢献しています。逆に言うと、自己主張を妨げるということは社会に害悪をもたらす元を作りうる訳ですから、その部分に関しては社会人失格というレッテルを貼ることは妥当なことだと思います。現実にはこの逆となっているかもしれませんが、このような方針から、自己主張を妨げることへの言説を作ることができると思います。


自己主張とは協力するということ。




アメリカは自己主張をしなければ生きていけない社会だという話を聞くことがあります。もっと平たく言うとアメリカは対立が多くてギスギスした国だと言いたいんじゃないかと思います。
しかしここで思うのは、アメリカでは自己主張しなければいけない、あるいは自己主張を求められるということは、本当に対立を意味しているのでしょうか。

アメリカに関するこういう話を聞くと思い浮かべるのは国際会議や裁判、事故の時の言い合いのようなお互いが対立している場面です。しかしこういう場面で主張を求めれるというのはよく考えると変な話です。なぜなら主張しないと不利になるのなら、相手に主張させないことが一番得だからです。主張するということが対立であるならば、相手が主張しないでいてくれるのが一番良いわけですから、主張を求める必要はありません。

こう考えると主張というのはもっと肯定的な意味があると思います。たとえばよく聞くのは、アメリカでは議論で主張をしない人は議論に協力をしていないと見なされるという話です。ここでの主張の意味というのは、対立ではなくいわば情報開示です。この人の頭にはCPUがあってこの人独自の知識があるのに、それをみんなに明かさないことが、非協力的だとみなされるわけです。また自己主張として表現するのは、いわばソースを明らかにすることと同じです。ソースのない話を広めるというのは、根拠のない噂話を広めるようなものです。これは誰の意見かどうかを明かすと言うことはソースを明示することと同じ機能があります。

ひるがえって日本では主張をしないといけないのではなく、主張をしてしまうとまずいという場面がほとんどだと思います。主張をしないから対立がなく協力的かというとそうではありません。主張ができないということは、僕たちの頭の中には他の人のためになるような知識があるのに、それを他人に与えることができないということでもあります。自分の意見として発言できないということは、知識のソースを明示できないということでもあります。これを謙虚さということはできるでしょうか。
たとえば地元で道に迷った人が自分に声をかけたとします。そのとき、本当は地元でよく知っている道なのに、自分はこの道を知らないと答えたとします。これを謙虚な態度だと言うのはどこか変です。
同じように、僕たちが日本人として自己主張したとき、それを謙虚さがないとか他人と争っていると言われることがあるかもしれませんが。実際にはソースを明らかにして自分の頭にあるHDDとCPUを使って情報を検索し、必要な人に情報を与えているわけです。
このように自己主張を邪魔すると言うことは、他人へ情報を与えることを邪魔しているとも言えるわけですから、少なくとも価値観の上ではこれを肯定しないといけないと思います。