日本語と英語でネットサーフィン。

日本語や英語でネットをしてるうちに出会ったものを紹介していきます。

壊れたフィードバックとして解釈する現代の妖怪




雷を見たとき、あれはなに?どうして光っているの?と子供に尋ねられることがあるかもしれません。現代ならば雷は雲から発生した電気だと説明するかもしれませんが、昔はそんな知識はなかったでしょう。そんなとき、説明として一般的な法則から雷という事実を導き出すという方法もあれば、性格やキャラクターとして説明する方法もあります。
一般的な法則というは力学や宗教の原理原則のことで、この法則から導き出せる答えとして雷という現象を説明するということです。これは西洋のやり方と言えるかもしれません。
一方性格やキャラクターによる説明というのは日本的かもしれませんが、雷が光るのは雷神様が怒っているからといった説明です。雷という現象に対して雷神様というキャラクターを想定して、そのキャラクターの性格や動きから説明するということです。
こういったキャラクターによる現象の説明のもっと極端な例は妖怪でしょう。突風や山登りでのけだるさに限らず、ふすまから人に見られているような感覚など、私たちの身の回りで起きる不可解な現象に対して妖怪というキャラクターを想定して、その妖怪がいるから現象があるのだという説明をするわけです。
これは自然現象だけではなく人間にも当てはまります。たとえばぬらりしょんという妖怪は、いつの間にか家の中にいて主人のような態度で居座るものとして描かれます。つまりこういう性質を持った人間というものも妖怪として説明されます。

妖怪という考え方はそういった意味でおもしろいと思うのですが、では現代にあって妖怪は消えてしまったのか、あるいは妖怪の考え方を無視していいのかというとそうではないと思います。
たとえば現代にはキャラという言葉があります。その場に合わせてある性格の人間を演じるという意味で使われる言葉です。
キャラと妖怪を対比すると、キャラというのは自分で演じているという意識を持っていて、場合によっては変更可能な状態だと言うことができます。妖怪はキャラとは違って、最初は演じていたとしてもその性質に自分自身が取り込まれてアイデンティティにまでなってしまい、もはやどんなことがあっても変わることができなくなっている状態だと解釈できないでしょうか。たとえばアカナメはなぜ垢を嘗めるのかと問うても、もはやそこには理由がないし、垢をなめなくなるとしたら、アカナメというアイデンティティがなくたって、何者でもなくなってしまうでしょう。

このように、ある性質が自分のアイデンティティとなってしまって、もはやそれなしでは何者でもなくなってしまう状態を妖怪と言うならば、現代にも妖怪はそこかしこにいるように見えます。たとえば一昔前によくいた会社人間、会社に人生を捧げて会社での立場でしかアイデンティティを持たない人、退職すると抜け殻のようになる人などは一種の妖怪なのではないか。旧日本軍には鬼軍曹のような妖怪がいたし、今でも体育会系という妖怪がいる。

こういった解釈での妖怪の問題点はフィードバックが壊れていることです。フィードバックが壊れたものの例としてよくガン細胞や壊れたブレーキ、環境破壊などが挙げられますが、一度方向が決まると破滅するまでブレーキが効かずに行くところまで行ってしまうわけです。フィードバックによる複雑系というのは現代の科学では最新のトピックですが、その中の一例として妖怪という題材を考えるとおもしろいかもしれません。


根拠はなくても仮定がある。日本人が議論できるようになるためには?




議論において根拠を求めたり、根拠を元に話すということは重要なことだと言われています。しかし根拠は常に必要な訳ではないし、時には根拠を求めることが議論を壊す結果にもなります。
たとえば何かを主張する相手にしつこく「その根拠は?」と尋ねることで、相手をやり込める方法があります。根拠を求めることが良いことだとするなら、こういった方法も良いことだと言えるのでしょうか。
さらに相手の主張を批判しようとするとき「その主張には根拠がない」と反論する方法がありますが、この批判の方法は適切でしょうか

そもそも根拠というものは、ある命題を他のもっと確実性の高い命題につなげるために使われます。それによって自分の主張したい命題の確実性を高めることができます。
しかし論理的なものではなく事実問題について考えたとき、どんな主張も仮定なしに完全に根拠づけることはできませんたとえば物理学でも実験によって理論が正しいかどうかを確かめるのですが、すべての状況で実験をすることができない以上、物理学の理論が普遍的だと言う主張には穴があります。
つまり物理学のような確実性の高いものでさえ、根拠を求めつづければ答えることができないところが出てくるわけですから、僕たちが適切に議論するためにはどの程度の範囲で根拠を求めるかという視点が必要になります。根拠を求めるという運動はどこかで打ち止めされなければいけません。

その一方で、命題に確実性を持たせるためには仮定を明示した上で、仮定のもとでの論理的な結論を導くこともできます。これは「〜と仮定するなら〜なる」という形の推論です。たとえば論証に数学を使う場合は、数学的な構造が事実だと仮定した上で、論理的な結論を導くために使われることが多いです。こういった仮定からの論理的帰結を導く方法は、経験的な根拠を挙げるよりも確実性であり、必然性を伴っています。なぜならあらかじめそれが仮定と明示しているので、たとえ仮定としたものが事実ではないことが分かったとしても論証は否定されないからです。だから仮定からの論理的帰結は、事実問題を考えないようにして論理だけを扱うことができるわけです。

つまり主張の確実性を持たせるためには、根拠を求める方法と、仮定付きの論理を求める方法があるということです。
仮定からの論理的帰結という方法がある以上、多くの場合「根拠がない」ということから主張を真っ向から否定することは不適切だと思います。これができるのは、相手が「これは無条件に正しい主張だ」と語ったときに限られると思います。この場合は無条件ということなので、仮定というものを自ら放棄しているので、仮定からの論理的帰結が使えない。したがって確実性を持たせるには根拠を示すという道しかないわけですから、根拠がないという批判は的を射ていると言えるわけです。

しかし僕たちが議論するとき、上に書いたような仮定からの論理的帰結の意義が本当に共有されているでしょうか。議論をしている最中に実験や新しい事実を調べることができない以上、議論でできることのほとんどは論理を使った確証であって、事実の確証ではないと思います。したがって議論においては根拠よりもむしろ、ある仮定のもとでどういう論理的な結論になるかを、いろいろな仮定の場合で考えるということが中心になります。そのような状況の中で、確たる根拠を言わないと主張が否定されてしまうとしたら安全な命題はほとんどなくなってしまいます。そうなると、何かを主張しようとする人はどんなときでも自分の主張を否定されるかも知れないというリスクを背負わされます。どんなときでも否定されるかもしれない状況の中でわざわざ何かを主張しようとする人はそれほど多くないと思います。

よく日本人は議論ができないと言われますが、日本人の中で仮定からの論理的帰結という方法の意義が共有されていないとしたら、それが一つの原因と言えるかもしれません。もしそうなら、この意義と方法論を共有するように仕向ければ、議論が可能になるための道が開けるかも知れません。


『センの正義論―効用と権利の間で』 若松 良樹 (著) 、功利主義の分解





センの正義論―効用と権利の間でセンの正義論―効用と権利の間で
(2003/06)
若松 良樹

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『センの正議論』は良い本だと思いました。私たちはいかに正義や善を決めればいいのかという問題について、功利主義や権利論など、様々な立場や方法論があります。この本はセンが他の立場に対峙して、いかに自らの主張を導いたのかを紹介していますが、それと共に倫理学での議論をとても丁寧に概観しています。
アマルティア・セン自身の立場としては、2つの極端な立場の中庸を行くものが多いようです。功利主義と権利論に対しては目標権理論。社会的選択理論については不利な点の修正を行い、分配の基準に関しては主観と客観の中間ともいえる潜在能力を用いることを提案します。
センについて読んでいて一番良いと思ったのは、経済学者らしく議論を工学的に分析して解決していこうという方法論です。彼は錯綜した倫理学上の議論を形式的に整理して、そこからさらに新しい知見を開こうとしているように見えます。

この本では、「目隠しをして天秤を手にもつ正義の女神」というものを、重要な比喩として用いています。「正義の女神」はいわば倫理的原則を表し、この原則によっていかに社会的な状態などの善悪などの評価付けをするかを「女神の天秤」として表現しています。さらに「女神の目隠し」というのは、その倫理的原則が排除した情報のことです。そしてセンは、さまざまな倫理的な立場を見る観点として、その倫理的原則がどの情報を排除して、どの情報を使うのかを探るというという、「情報分析」という方法論を採っています。
さて、倫理的原則を考えるためには一からそれを作り出すこともできますが、功利主義のようにある程度明晰な原則をたたき台として、それへの批判的な応答としてどのような可能性があるかを考えることができます。いわば経済学でいう古典派のようなものです。
ですからここでは功利主義についての情報分析を述べます。

功利主義にもいろいろな立場がありますが、その典型的な形式は、帰結主義+厚生主義+総和主義です。この3つのそれぞれに権利論などからの反論があります。それに対して功利主義の側は、定義の範囲を変えることで反論に応じることができます。

帰結主義は、事態の帰結という情報をもとに価値を判定することと言えます。戯画化した功利主義ならば、過程や行為、動機などを無視するという立場になるでしょう。それはあまりにも単純すぎるということで多くの批判があります。
しかし帰結という言葉が意味する範囲がとても広いので、そのような批判に応答する帰結主義の立場を作ることもできます。たとえば過程自体を帰結の一つとして取りこんだり、行為や動機というものも主観的には何らかの帰結と言えるかもしれません。したがって、行為帰結主義・動機帰結主義;規則帰結主義のようなバリエーションを作ることで批判に答える余地があります。

厚生主義は、事態の評価を個人の快楽のような効用のみに基づいて判定する立場で、効用しか考えないという意味では、厳しい制約を課すものです。倫理的な価値を考えると、個人の効用だけでなく、快楽によらない価値や主体性などが情報として必要に見えます。
これも願望や善い快楽などを効用に含めることで、批判に答えることができそうです。とは言え、たとえ自分が嫌でもしなくてはいけない義務のようなものまで効用として扱うのは無理が出てきそうです。そのような困難があるならば、厚生主義を捨てて主体性や義務といった情報も扱うという余地が出てきます。

総和主義は、いかに効用を集計して社会的な善を判定するかという問題に対して、各人の効用の単純な総和という回答をします。しかしよく言われるように、単純な総和だけでは、極端に効用の高い人と低い人のように不平等な分配を容認することになります。さらに総和主義は個人を不可分のものではなく、ばらばらに分けて集計するものと見るので、個人の人生の中での不平等をも考慮に入れません。たとえばリア王は前半生を謳歌していたが、後半生では娘に裏切られて悲惨な目にあった。しかし総和主義ではこの悲惨さというものを見ることができません。

このように功利主義を3つに分解した上で、それぞれもまた批判に答える形でバリエーションを作ることができます。しかしそれでも足りない部分があったり、そもそもの目的や運用の問題などさまざまな理由で、功利主義は批判に晒されます。それら功利主義批判の代表格が権利論です。この本では、帰結主義への反論として行為主体相関性など、誰が行為を行うか、権利や義務、自律性などの概念の形式化を紹介しています。
さらに、センが支持している社会的選択理論などを「社会選択的定式化(SCF)」と呼んだとき、それに対する批判的代替案として「ゲーム形式的定式化(GFF)」を紹介しています。これは倫理や社会的分配というものをゲーム理論のような人々の選択の均衡として理解しようというものです。
こういった形式化をもとにした議論がこの本の本当に面白いところだと思いますが、僕の理解がまだ足りないので今回はここまでにしておきます。


他人の『甘え』を指摘できるのは誰か。意味分析と安全管理。




(1) 日本で使われている価値的言説の多くは修養や儒教から派生した物が多いようです。今回はその中でも『甘え』の意味と運用上の条件を決め、どのような状況で使うことができて、どのような状況では不適切なのかを考えていきたい思います。

『甘え』という言葉は、相手を叱責する、あるいはむしろ厳しい言葉で励ましたりすることに使われています。本来の使い道として、師匠と弟子の関係を想定して使われていることは明らかだと思います。
しかしながら、現在の日本においては、『甘え』という言葉が、実際の修行や修養以外の場面でたくさん使われているのを目にします。たとえば部活動、仕事、社会問題、親子関係などです。
ここでは、このような場面で『甘え』という言葉を使うことが適切かどうか、また破滅的な結果を招かないかどうかの安全面での分析をしてみます。


(2) まず『甘え』の定義です。『甘え』が存在するということは、その人の精神や身体にはまだポテンシャルが残っていることを意味します。そしてポテンシャルが残っているにも関わらず、精神や身体の力を出し切ってはいないという状態ということにします。

ここでひとつの場面を想定します。例えば山奥で師匠が弟子に修行を課しているとします。弟子がへとへとになって休もうとすると、師匠が弟子に向かって「それは『甘え』だ。修行を続けなさい。」と語ったとしましょう。
ここでまず気になることは、師匠はどうやって、弟子に『甘え』があると知ったのかということです。他人である師匠が、弟子の精神と身体のポテンシャルの限界を知ることが果たしてできるのでしょうか?

(3) 師匠が弟子のポテンシャルを知る一番簡単な方法は、弟子からの自己申告です。つまり弟子が「ぼくはもう無理です。」と自分で語ったならば、それを信じてポテンシャルが限界にあると認めることです。しかしながら、おそらくほとんどの場合、そのような自己申告を師匠は認めません。なぜなら「もう無理です。」と語ること自体に、心の『甘え』があるという論理が使われるからです。

では他に弟子のポテンシャルの限界を知る方法があるでしょうか。テレビや漫画の中では、師匠と弟子が長い間共に暮らし、共に修行することで、弟子の自己申告によらずに、弟子の細かな変化から、弟子の甘えた心を見分けるという設定が多いようです。ですから、師匠が長い間弟子を観察することで、弟子の状態を知ることはありうるかもしれません。

他の方法としては、科学的、医療的な方法で知ることできそうです。精神面では、心理カウンセリングの知見を利用したり、脳の活動を見ることが考えられます。身体面については、米軍のトレーニングでは、兵士がランニングでへばったときに血液酸素飽和度を測ることで、身体的なポテンシャルが残っていることを見分けているようです。

(4) 上で挙げたやり方が弟子のポテンシャルの限界を知る方法のすべてならば、このような方法を取っていない状況では、そもそも『甘え』の認知が不可能だということになります。例えば会社や部活動、家庭、社会批評において師匠に当たる人たちは、目下の人の『甘え』を認識して、無理をさせることが許される状況なのでしょうか。

会社は多くの場合ダメだと思います。なぜなら上司と部下の関係は、同じ時間を過ごすことが多いとはいえ、ほとんどの場合部下の機微を見抜くほどではないからです。最近では企業で心理カウンセリングなども行われていますが、精度はとても低いと思います。部下が無理だと訴えるのを『甘え』だとして無視しつづけることが許されるとしたら、最悪の場合過労死や鬱にかかる危険があります。従って、このような場合の職場での過労死などは『甘え』の運用の失敗という評価付けをすることが可能だと思います。

部活動も職場とほぼ同じような結論になると思います。部活動中に死亡する例や、相撲部屋のようにしごきと称した暴力で死ぬことがあります。これらも、『甘え』の運用の失敗と見ることができると思います。

家庭でのしつけの場合は、『甘え』を認識することが可能かもしれません。なぜなら親子は多くの時間を過ごし、栄養や体力、心理状態などを子どもの機微から知ることができうるからです。さらに親は子を保護するという責任を問われる制度は充実してきています。極端なしつけをしようとする親に対しては、法や行政の介入も認められてきています。それでも子どもが親に殺されたり、虐待されることが多いようですが、そこで『甘え』ているからしつけをしたという言い分は、あまり認められなくなっているように思います。

社会批評において、『甘え』を認識することはほぼ完全に不適切だと思います。例えば、「最近の若者は甘えているから職がない。努力が足りない。だから支援する必要はない。」と言うように、社会的な問題に対して『甘え』を使うことがあります。この場合、若者一般の精神・身体のポテンシャルを測ることは不可能であるし、失業のようなマクロの問題を、個人の『甘え』で説明することは不合理です。したがって、このような形の『甘え』は少なくともまじめな論考としては使うべきではないし、これを使っている人は誠実に社会問題に取り組んではいないのではないかと疑うこともできます。

(5) 残念なのは、『甘え』という言葉を使っている人たちは、師匠のキャラクターを演じているので、上のような運用の失敗を指摘すると、メンツを壊されたと思われやすいことです。しかしもし師匠に値する人物ならば、自身の間違いや危うさを誠実に受け止めるでしょう。
師匠の態度だけをマネた偽物を、どのように対処するかは次の機会に書くことにします。ここでは、本当に師匠に値する人と、偽物を見分ける評価軸として、『甘え』にひとつの評価付けをしたということに留めたいと思います。
ただし、『甘え』に対する適切な評価を多くの人が持って、それを言葉として使えるようになれば、偽物の師匠の暴走を監視したり事前に行動を防ぐことも可能だと思います。


日本の知的状況への絶望と希望:『物理数学の直観的方法(普及版)』 長沼伸一郎(著) の感想




物理数学の直観的方法 〈普及版〉 (ブルーバックス)物理数学の直観的方法 〈普及版〉 (ブルーバックス)
(2011/09/21)
長沼 伸一郎

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この本は文句なしに名著だと思います。本書はタイトルの通り、大学の物理学で使う数学の中心的な概念を、図やグラフ、比喩によって平易に解説したものですが、単に良い解説書というだけではありません。この本を読み切った後には、良質なSFを読んだような感覚がありました。素直に数学を勉強してて良かったと思えます。すべての理系学生にはこれを読んで欲しいです。

特に良いのはやはり電磁気学のrotについて解説した章です。rotの式は回転を表すもののはずが、なぜか場のy方向をxで微分したものとx方向をyで微分したものの差として書かれています。これは結局、水車が回転するための条件として、水車の両側の流れの差を表したものだとすれば直観的に理解できます。著者によると、この式がなぜ回転を表すのかを理解したのは大学院に入ってからで、他の同級生なども同じようなものだったらしい。さらにこの水車の回転の比喩が、複素関数特異点の説明につながったりします。
直観化を使って物理数学を巡った先に、線形代数固有値から三体問題、さらに西洋から生まれた近代科学の還元的手法の限界についての章があります。簡単に言うと世界はそれぞれ相互に絡み合っていて、部分的に分解して考えることはできないということですが、それが数学で説明されるとすっきりします。

『物理数学の直観的方法』は、1987年に第一版が出て以来、大学の理科系の人たちに大きな影響を与えたようです。僕が物理数学を学んだのはもっと後です。最近では大学生向けの平易な教科書も充実しているので、この本にある直観化の方法については、多少知っているところもありました。でもおそらくはこの本がその元祖なんでしょうね。

そこで気になったのは、やはり本が出た当時の状況です。当時、大学での数学の授業では、式がどのように使われ、どういう目的で作り出されたのかについて述べることもなく、ひたすら証明や導出をしていたらしい。そしてそういった授業を担当した人たちは、それが厳密なやり方であると思っていたらしい。
しかし、目的も述べず、根源にある本質的な概念も語らずに、公理に従って式を導くことが本当に厳密なのでしょうか?授業や教科書というものが、人に概念を伝えるという目的を持っている以上、その効用を最大化することが必要になってくるはずです。そういった場で人の理解を無視したやり方をする人というのは、厳密さをどうしようもないほど損なっていると思います。おそらくそういう人は、『無味乾燥さ』や『狭量さ』などと『厳密さ』を混同しているのだと思います。

著者が言うように、ある数式を考え出した第一世代の学者の頭には、その数式の目的や意義、直観的な概念があったはずです。しかし数学的な形を整えて形式化した第二世代以降、そういったものが失われ、ついにはそれを知っている人すらいなくなるという事態が進行していたようです。

残念ながら、こういった事態は、数学に限らず日本では起こりやすいことだと思います。なぜなら日本では上下関係や集団間の溝が大きいので、知識の伝達の過程で、質問や概念の確認ができないことが多く、本来の形から変容した概念が、そのままの形で次世代に伝わってしまいやすいからです。
『社会人』と言った言葉や『甘え』や修養の倫理なども、すでに本来の概念や必要条件からずれて、全く違う使われ方をしているように思います。本来は自分を厳しく律することで社会に貢献するという目的であったはずが、全くの他人を自分の弟子に見立て、自分は師匠様になりきって、他人を貶めたり言質を取ることに使われているように見えます。
そういった言葉を暴走させないために、他の価値との比較と、価値の還元、成立条件の明示などの概念分析をしようというのが僕のやりたいことです。

だから、そういった流れの中で見ると、この本が日本人によって書かれたということには、大きな意味があると思います。もちろんこの本は自費出版であり、いわばゲリラ的に世に出るしかなかったことは残念です。しかしそれでも、この本は日本で大きく受け入れられて、今では多少なりとも物理数学の本来の直観的概念を多くの人が持つことに成功しています。
僕はこの事実に、絶望と希望の両方を感じます。

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議論の無意味性を説く『不可知論』と『相対主義』の弱点。




(1) 「すべてのカラスは黒い」という命題を立証するためには、すべてのカラスを調べ上げて確かめるか、遺伝子や数学モデルなどから、論理的にカラスは黒くならざるを得ないことを示す必要があります。
一方「すべてのカラスが黒い」を否定するための最低条件は、「少なくとも黒くないカラスが1匹はいる」ということです。

では否定条件である「少なくとも黒くないカラスが1匹はいる」という命題の方が、立証不可能だと分かった場合はどうなるでしょうか。実はこれでも「すべてのカラスは黒い」とは言えません。そこから言えるのは、「すべてのカラスが黒い、または、少なくとも黒くないカラスが1匹はいる」ということです。つまり何かを立証してはいないという状態です。

(2) このように、ある命題があったとき、そこには導入規則と否定規則を考えることができます(命題の立証のことを導入と言い換えています)。ある命題が否定されると、もちろんその命題を導入することはできません。しかし、命題の導入ができないことを示したとしても、そこから命題が否定されたことにはなりません。 否定と導入が一致するのは、「ある」と「ない」のような二者択一の場合のみ許される関係だけです。「すべて」というような命題の場合は、否定と導入が1対1の単純な関係ではありません。

まとめると「すべて」というものが入った命題では「命題の否定→命題の導入不可能」 とは言えますが、「命題の導入不可能→命題の否定」にはなりません。
したがって、立証責任を相手に振り向けたとしても、自分の側が立証されたことにはならないことが分かります。

(3) 当たり前のことを言っているように見えますが、ここで分かるのは、単純に否定と肯定といった反駁関係だけを見ると、間違った推論に導かれうるということです。
哲学によく現れる原則的な命題、妥協を許さない命題の場合は、「すべて」という性質を含むので、上で示した原則に従わなければなりません。不可知論や相対主義なども「すべては〜」という性質を含み、さらに妥協を許さない性質のものです。

ですからそういった主張をする場合には、必ず「立証」をしなければなりません。否定ができないというだけではダメだと言うことです。もちろん現実的にはそれを立証するということはほとんど不可能に近いはずです。
したがってこのような事情から、不可知論や相対主義への反論を作り出すことができます。

(4) では、不可知論や相対主義を立証できないとしても、妥協した形で主張することはできるでしょうか。妥協が許される場合、立証責任を相手に振り向けたり、反証されなかったときのニュートラルな位置を規定することで、立証せずとも命題を妥協的に導入できます。悪魔の証明批判も使えます。

しかしこの場合には、他の科学的・常識的な命題と蓋然性の比較をされることになります。例えば妥協的な不可知論の場合、何かが常識や科学的に不可知でありそうならばプラスに働きますが、逆に常識・科学的に知ることができると思われているものに対しては、蓋然性の文脈で勝負して、相手を打ち倒さなければならなくなります。
「倫理は相対的で、絶対的な倫理というものは存在しない」という主張も、完全に立証ができれば問題はないですが、どこかで妥協して命題を導入するならば、アンケート調査での倫理観の共通性などの経験的な情報などと比較した上でどちらがよりありうる結論かを判断されなくてはいけなくなります。

つまり、「すべての〜」という形をゆるめて妥協した場合には、経験的なデータを取って考えることを拒否できなくなるということです。
逆に言うと、このような事情から、不可知論や相対主義による議論の破壊を押しとどめることができうると思います。

関連記事:主張とアンチテーゼ:倫理的懐疑主義の区別  :哲学における『悪魔の証明』は正当な推論である。


主張とアンチテーゼ:倫理的懐疑主義の区別




哲学や真理について考える人がまず初めにぶち当たるのが懐疑主義だと思います。ここでは人間の真理を認識できるかどうかについての懐疑主義を対象とします。懐疑主義にはいくつかのバリエーションがあり得ますが、ここでは弱い懐疑主義と強い懐疑主義に分けます。

弱い懐疑主義は、「人間が真理を知ることができるとは限らない」という主張です。これは一種のアンチテーゼだと言うことができます。「人間には真理を認識することができる」と言う主張に対して、いやそうとは限らないと言っているわけです。このように相手が「すべて」とか「絶対」という形で主張をした場合、そのアンチテーゼを立証することはとても簡単で、「少なくともひとつでも例外がある」ということを示せば良いことになります。このお手軽な懐疑主義を、弱い懐疑主義と呼ぶことにします。

一方で強い懐疑主義は上とは全く逆の形になります。強い懐疑主義は懐疑の結果、絶対的な結論を得たもので、「人間には絶対に真理を認識することはできない」という主張です。弱い懐疑主義とは逆に、こちら側に「すべて」や「絶対」といった性質が持ち込まれていることに注意が必要です。だから弱い懐疑主義とは違って、強い懐疑主義を立証することは、とても難しくなります。実際、人間が真理を認識することの不可能性を示すには、過去から未来に渡って、あらゆる真理を知る可能性が存在しないということを立証しなければなりません。逆に強い懐疑主義のアンチテーゼの立証はとても楽です。過去から未来のどの一点でもいいから、真理を認識する可能性がたった一つでもあれば、アンチテーゼは成立します。
つまり、弱い懐疑主義と強い懐疑主義は、立証に必要な量がまったく逆になっています。弱い懐疑主義は「少なくともひとつ」でも立証できればそれでよく、強い懐疑主義は「すべてについて当てはまる」ということを立証しなければなりません。そしてそれぞれのアンチテーゼはその逆であるということです。

2つの懐疑論の違いを混同すると、間違った推論をさもそれらしく作り出すことができてしまいます。
例えばメタ倫理学では、倫理の不可知論という立場があります。これは事実から価値を導くことができないという「自然主義の誤謬」から来ることが多いようです。客観的な科学から事実を知ることができますが、逆にいうとそれによって価値を知ることはできないというものです。
しかしこの不可知論においても、「すべて」と「少なくともひとつ」を混同しないようにしなくてはなりません。そのために弱い不可知論と強い不可知論を分けます。

弱い不可知論は、「事実から価値を完全な形で知ることはできない」という主張です。完全ではないと言うためには、100パーセントではないと言うだけで良いので、立証するためには1パーセントでも足りない部分を示せばいいので立証は楽です。
逆に強い不可知論は、「事実から価値を知る情報は一切ない」ということを主張します。この場合は、すべての事実に関して、価値への推論ができないということを示す必要があります。そのためには単に世界観や数学モデルを示すだけではだめで、「実際に」事実から価値を導けないことを示すことが必要です。

強い不可知論が妥当ならば、倫理に関することを科学やデータで議論することは全く意味がないと言うことができます。つまり事実に基づく倫理的な議論をすべて無意味だとして捨て去ることができます。しかし弱い不可知論ならば、これが妥当だとしても、科学的事実に基づいて倫理を語ることの意義は残されています。たとえばアンケート調査や社会制度分析、心理学や脳科学を使って、100パーセントでなくとも、ある程度の妥当な価値的結論に達する見込みは残っています。

この2つの不可知論を混同することで、立証部分は弱い不可知論を用いて、その結論は強い不可知論を用いるということを時々見ます。これを避けなければ、議論に破壊的な影響を与えてしまうと思います。

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