日本語と英語でネットサーフィン。

日本語や英語でネットをしてるうちに出会ったものを紹介していきます。

『センの正義論―効用と権利の間で』 若松 良樹 (著) 、功利主義の分解





センの正義論―効用と権利の間でセンの正義論―効用と権利の間で
(2003/06)
若松 良樹

商品詳細を見る
『センの正議論』は良い本だと思いました。私たちはいかに正義や善を決めればいいのかという問題について、功利主義や権利論など、様々な立場や方法論があります。この本はセンが他の立場に対峙して、いかに自らの主張を導いたのかを紹介していますが、それと共に倫理学での議論をとても丁寧に概観しています。
アマルティア・セン自身の立場としては、2つの極端な立場の中庸を行くものが多いようです。功利主義と権利論に対しては目標権理論。社会的選択理論については不利な点の修正を行い、分配の基準に関しては主観と客観の中間ともいえる潜在能力を用いることを提案します。
センについて読んでいて一番良いと思ったのは、経済学者らしく議論を工学的に分析して解決していこうという方法論です。彼は錯綜した倫理学上の議論を形式的に整理して、そこからさらに新しい知見を開こうとしているように見えます。

この本では、「目隠しをして天秤を手にもつ正義の女神」というものを、重要な比喩として用いています。「正義の女神」はいわば倫理的原則を表し、この原則によっていかに社会的な状態などの善悪などの評価付けをするかを「女神の天秤」として表現しています。さらに「女神の目隠し」というのは、その倫理的原則が排除した情報のことです。そしてセンは、さまざまな倫理的な立場を見る観点として、その倫理的原則がどの情報を排除して、どの情報を使うのかを探るというという、「情報分析」という方法論を採っています。
さて、倫理的原則を考えるためには一からそれを作り出すこともできますが、功利主義のようにある程度明晰な原則をたたき台として、それへの批判的な応答としてどのような可能性があるかを考えることができます。いわば経済学でいう古典派のようなものです。
ですからここでは功利主義についての情報分析を述べます。

功利主義にもいろいろな立場がありますが、その典型的な形式は、帰結主義+厚生主義+総和主義です。この3つのそれぞれに権利論などからの反論があります。それに対して功利主義の側は、定義の範囲を変えることで反論に応じることができます。

帰結主義は、事態の帰結という情報をもとに価値を判定することと言えます。戯画化した功利主義ならば、過程や行為、動機などを無視するという立場になるでしょう。それはあまりにも単純すぎるということで多くの批判があります。
しかし帰結という言葉が意味する範囲がとても広いので、そのような批判に応答する帰結主義の立場を作ることもできます。たとえば過程自体を帰結の一つとして取りこんだり、行為や動機というものも主観的には何らかの帰結と言えるかもしれません。したがって、行為帰結主義・動機帰結主義;規則帰結主義のようなバリエーションを作ることで批判に答える余地があります。

厚生主義は、事態の評価を個人の快楽のような効用のみに基づいて判定する立場で、効用しか考えないという意味では、厳しい制約を課すものです。倫理的な価値を考えると、個人の効用だけでなく、快楽によらない価値や主体性などが情報として必要に見えます。
これも願望や善い快楽などを効用に含めることで、批判に答えることができそうです。とは言え、たとえ自分が嫌でもしなくてはいけない義務のようなものまで効用として扱うのは無理が出てきそうです。そのような困難があるならば、厚生主義を捨てて主体性や義務といった情報も扱うという余地が出てきます。

総和主義は、いかに効用を集計して社会的な善を判定するかという問題に対して、各人の効用の単純な総和という回答をします。しかしよく言われるように、単純な総和だけでは、極端に効用の高い人と低い人のように不平等な分配を容認することになります。さらに総和主義は個人を不可分のものではなく、ばらばらに分けて集計するものと見るので、個人の人生の中での不平等をも考慮に入れません。たとえばリア王は前半生を謳歌していたが、後半生では娘に裏切られて悲惨な目にあった。しかし総和主義ではこの悲惨さというものを見ることができません。

このように功利主義を3つに分解した上で、それぞれもまた批判に答える形でバリエーションを作ることができます。しかしそれでも足りない部分があったり、そもそもの目的や運用の問題などさまざまな理由で、功利主義は批判に晒されます。それら功利主義批判の代表格が権利論です。この本では、帰結主義への反論として行為主体相関性など、誰が行為を行うか、権利や義務、自律性などの概念の形式化を紹介しています。
さらに、センが支持している社会的選択理論などを「社会選択的定式化(SCF)」と呼んだとき、それに対する批判的代替案として「ゲーム形式的定式化(GFF)」を紹介しています。これは倫理や社会的分配というものをゲーム理論のような人々の選択の均衡として理解しようというものです。
こういった形式化をもとにした議論がこの本の本当に面白いところだと思いますが、僕の理解がまだ足りないので今回はここまでにしておきます。