日本語と英語でネットサーフィン。

日本語や英語でネットをしてるうちに出会ったものを紹介していきます。

ニュートンの生家を検索してたら、宣伝ブログにぶち当たった。

最近ニュートンの生涯に関心があって、それに関する本をよく読んでいる。ニュートンの家が今も残っているのを知って、ネットで「ニュートン 生家」などと検索してみると、日本人がニュートンの家を尋ねた旅行記ブログが。ひとしきり情報を得て、ちょっと似た他のワードで検索するとさらに他の日本人の旅行記ブログが。

で、なんか似てるぞ・・・。まるでパッチワークのようにところどころが違っていながらも人間のゲシュタルトを欺ききれてはいない感じ。


その異常に似ている2つのブログ記事がこれ。
Woolsthorpe Manor~近代科学の「アイザックニュートン」の生家~
NT Woolsthorpe Manor  ニュートンの生家

対照してみると・・・


「ただっぴろい平原の農村地帯に、こじんまりとした古いファームハウスがあります。」
「農村地帯にあるこじんまりとした古いファームが言わずとしれた【万有引力の法則】を発見した大天才アイザック ニュートンの生家です」

「■当時はまだ魔女や悪魔が信じられていたので、家の壁のいたるところに魔女よけのマーク(Witch Mark)がある。」
「この地方は当時まだ魔女や悪魔が信じられていて家のいたるところに魔女除けのマーク
[Witch mark]が残っている」

「そして生家に隣接して、サイエンスディスカバリーセンターがあります。もともとは納屋だったそうですが「次世代のニュートンに続く科学者を育てよう!!!」という匿名の寄付により、建てられたミニミニ科学ミュージアムって感じで、」
「そして生家に隣接して、サイエンスディスカバリーセンターがあります。もともとは納屋だったらしいんですが、「次世代のニュートンに続く科学者を育てよう!!!」という匿名の寄付により、建てらそう。。。」


その他いろいろあるけどあまりに多いからやめとこう。
後半はもうめんどくさくなったのか、同じ文章や、同じ写真になってくるという。

そして全くおなじ写真
なんかやってる
本みたいなのを持ってる


まあ、たぶん宣伝ブログだろう。いや、別にいいか悪いかを言っているわけではないけども、むしろなんかいろいろ順番変えたりちょっと語尾をいじったりしてるのを探すのっておもしろいなあ。
あと、ダーウィンは2つの似た種の生き物から元の生き物を考えたりしたけども、それに近い感覚。

こういう検索なんかを使った推理ゲームとかおもしろそうだね。

WiiUの最終目標はカジュアルゲーマーにFPSをプレイさせることである。

・先日日本でもWiiUが発売された。ここまでのところ売り上げは順調みたいだけど、このハード、なにやらいつもの任天堂とは様子が違うように見える。
本体更新をめぐる不手際は別にしても、今回の任天堂はコアゲーの方向に舵を切っているようにも見える。ソフトには『ゾンビU』や『コールオブデューティ』などのコアゲーマー向けのゲームが並ぶが、それよりも何よりもコントローラーを見ると分かる。タッチパネルに加えてこれまでのゲーム機のコントローラーを網羅するようにボタンやスティックが配置されていて、これまでになく複雑になっている。
Wiiでカジュアルゲーマーをゲームに導くことに成功した任天堂が、WiiUで目指すものは本当のところ何なのだろうか。

・そもそもWiiの成功はお母さん層からお年寄りまでのカジュアルゲーマーを引き寄せたことだった。しかしさらにそこから3D、シューティング、FPS音ゲーをプレイさせることには失敗しているマリオギャラクシーはある程度売れたとはいえ、2Dマリオには大きく後塵を拝しているし、『Wiiミュージック』はまさかの大コケ。大ヒットするのは『脳トレ』や『WiiFit』のようなお手軽、体感ゲームばかり。その結果コアゲームとの格差はむしろ広がったかのようにも見える。入り口に入って少しは遊んでもらえたが、本当に楽しいアトラクションには乗らずじまいだったのだ。
しかしこういったお手軽ゲームにはバリエーションの限界がある。どうしても同じようなゲームばかりになり、カジュアル層にも飽きられる。
そこで任天堂なら考えるだろう。どうやったら世のお母さんに最先端のゲームをプレイしてもらえるだろう。

・そこでWiiUである。任天堂WiiUで提案している遊びの一つに『非対称プレイ』がある。非対称、つまり一人がWiiUゲームパッドで遊んでいる間にも、周りの家族はただ単に見ている必要がなく、Wiiリモコンなどを使って一緒にゲームの世界をいじることができる仕組みだ。
実はこれは巧妙に考え込まれた教育ツールとなっている。家族の中に一人でもゲーム好きがいれば(根っからのコアゲーマーでなくてもかまわない。3Dゲームができる女の子が一人いればいい)、娘がゲームパッドでプレイしている間に隣に座っているお母さんがちょこちょこWiiリモコンでお助けをすることができる。これだけでもコアゲームに触れるきっかけを与えるわけだ。そこでちょっとでも興味を持ったなら、ゲームパッドを交代して遊んでもらえれば御の字だ。そうやってちょっとずつ3Dゲームなどのコアゲームの世界に慣れてもらえればいい。

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実は任天堂がコアゲーとカジュアルゲーの橋渡しにチャレンジしたのはこれが最初ではない。3DSの『スーパーマリオ 3Dランド』では、3Dマリオながら2Dのような一本道の構造を導入することで、2Dマリオしか触らなかったユーザーに3Dの教育をしていると見ることができる。
WiiUではその名も『ニンテンドーランド』というゲームを出している。ここまでくれば意図は明確である。ゼルダドンキーコングメトロイドピクミンといった、これまでの任天堂が誇るあらゆるゲームシリーズを、カジュアルゲーマーに触りの部分だけでも体験してもらうのが目的のゲームだ。

こうやって任天堂のコアゲー教育が成功していけば、将来は主婦のお母さんが最もコアなゲームの一つであるFPSをプレイする未来も夢ではないかもしれない。もちろんそのときは任天堂らしく、誰似でも受け入れられるパッケージとして発売されるだろう。

Google App Engine for Python、やっとHello Worldが実行できた。

・最近ウェブでいろいろと学べるサイトが出てきた。Udacity - 21st Century Universityもその一つ。 もちろん無料。

これの良いところは、短い2〜3分ほどの動画と直後のショートクイズの組み合わせで進むところ。2〜3分で1つの話題が終わるので、リズムに乗るようにポンポン先に行ける。気づいたら1時間やってるような感じになれる。

また、動画は基本的にペンを持つ手とキャプチャした画面で進むが、手が半透明になっているので、画面が見やすい。
途中のショートクイズにも工夫がある。 実際にペンで書かれた選択肢にそのままラジオボタンや書き込みスペースが作られるようになっているので、本当に個人レッスンを受けているように思える。

コミュニティ機能として、質問やwikiなんかがある。

そこで「Web Application Engineering」のコースを取ってみた。


・Unit1まではサクサク進んだけど、「Google App Engine for Python」を使うところでつまづいてしまった。

Google App Engine Launcher」を使ってローカルホストにhelloworld.pyとapp.yamlをアップロードしたいのにエラーができない。
動画を見たら、どうやらコマンドプロンプトで指示を送るステップを飛ばしているようだった。でもその動画はmac版。。

ということで他のサイトを当たっていろいろやってみたところ、 ソースコードから理解する技術−UnderSourceCode Google App Engine スタートガイド (2) dev_appserver.py を参考にして、やっと「http://localhost:8080/」にデータを送ることができた。

・何が重要だったかというと、まずはユーザーフォルダのような、日本語の名前のフォルダの下にデータを置くのを避けること。Cの直下かpythonフォルダの下あたりがいい。

コマンドプロンプトでは、Google App Engineの中の「dev_appserver.py」を実行するのが目的。そのためにはまずコマンドプロンプトを開いてから、[cd C:\Program Files\Google\google_appengine] のようにして、「dev_appserver.py」が置いてあるGoogle App Engineのフォルダを指定する。
その後、[dev_appserver.py D:\python\helloworld]のように、「dev_appserver.py」の後に半角を開けてから、hellowoldフォルダの置いてある場所を書く。
エンターで実行すると、いろいろ読み込まれる。

その後chromehttp://localhost:8080/にアクセスすると、helloworldのプログラムが読み込まれ、文字が出た。ちなみに文字を変えることもできた。

これだけだけど、結構苦労した。自分が初心者というのもあるけど、導入がこれだけ大変だというのはちょっと良くないかと思った。

まあでも、とりあえずこれで次に進める。

<a href="http://econdays.net/?p=6828">【古】クルーグマン「低賃金労働を称えて:ひどい賃金のひどい仕事でも無職よりマシ」(Slate,1997年3月21日) &#8211; 道草</a>がおもしろかったのでまとめてみる。

たしかに第三世界の新たな輸出産業の賃金と労働条件は劣悪だけれど,「それ以前のあまり目につかない農村の貧しさ」からは大きく改善しているんだよ

当然反グローバリズム主義者からは、それを非難する声がクルーグマンに届けられた。
しかし
keyword:クルーグマンは、フィリピンのゴミ山のことを考えながら、それに対する反論を書いた。

そのゴミの山とはフィリピンのマニラ付近スモーキー・マウンテンで、ゴミ捨て場には貧しい人々が集まり、ゴミを集めることで生計を立てるスラムが出来上がっている。なぜ人々が集まってきたかというと、この仕事のほうが他より割が良かったからだ。

でもこのゴミ山のスラムを消滅させる力を持っているのは世にあふれる良心を持った海外援助活動なのか。いや、そうではなくてグローバリズムだ、というのがクルーグマンの言いたいことだと思う。
クルーグマンは途上国こそがグローバリゼーションの恩恵を受けているという。なぜか。20年ほど前の途上国では、輸入割当などの国内産業を保護する政策で、自国の産業を発展させようとしたが多くが失敗。その結果雇用は生み出さされず、農民達は人口の圧迫から辺鄙な土地の開墾などを余儀なくされた。ゴミ山で鉄くずを集め出す人々も増えた。

しかし現在、関税障壁や空輸費用の低下や通信技術の発達で、途上国と先進国が簡単につながるようになってきた。その中で途上国の低賃金というメリットが意味を持ち始めた。結果、先進国が途上国で工場をつくって物を製造するという産業形態が出来上がった。

途上国にそういった形の成長産業が出来ると、労働者は引く手あまたになり、労働力が欲しい企業は賃金を上げる。経済は回って農村にまで波及効果が届く。

重要なことは、これらは良心をもった海外支援のおかげではなく、グローバリゼーションにならう企業の動きによって成し遂げられたということだ。

そこで、なぜ反グローバリズムはまずいのか。例えば彼らが言うように途上国の労働環境が改善されない限り、その製品を買わないという運動をしたとする。そうすると痛手を負うのは途上国自身となる。途上国は低賃金というメリットを失って、産業の成長の伸びが悪くなる。それが経済全体の波及効果に水を差すことになる。
さらに先進国が下手に援助をすることで、途上国の政治に癒着や依存を生んで、自律的な成長を阻害しかねない。


ここまでが、クルーグマンの記事の自分なりのまとめだが、思うにクルーグマンはグローバリゼーション問題に関しては市場原理にまかせるべきだという考えが強いのだろう。なぜ彼が記事を書きながらゴミ山のスラムを思い浮かべていたかというと、その生成と消滅は貿易に関する市場原理によると考えていたからだと思う。

しかしクルーグマンに反論するとすると、反グローバリズムとはいかないまでも、途上国の労働環境を改善する手立ては市場と経済以外にあるのではないか。

例えば途上国の人たちの労働環境が悪い原因の一つは、労働者の選択肢が少ないことだ。労働者が一つの企業や産業にしばられずに、企業間や産業間での移動ができるように、教育、情報、ネットワークを作ることができれば、労働者の交渉力が高まるのではないだろうか。そういう形での支援なら、先進国もできるのではないかと思った。

シェア<共有>のために必要な4つの要素とは。

ネットを通して全くの他人と車を共有したり、要らなくなったソファーやボルトを売る、あるいは交換し合う。土地やオフィスを共有することもできる。

シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略

シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略


「シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略」では、ネットを使った新しい形を推し進めるための重要なこととして4つの要素を挙げていた。
クリティカル・マスの存在」、「余剰キャパシティの利用」、「共有資源の尊重」、「他者との信頼」。
このすべてがインターネットの発達に関わっている。

クリティカル・マスの存在」

クリティカル・マス」は選択肢の幅と言えるし、人同士のシェアという意味では必然的に集まる人の多さとも言える。どれだけ優れたウェブサイトでも、人がほとんどいなくて扱う物の選択肢の幅が狭ければ、サイトにやってくる人の需要を満たすことはできない。

逆に言うと選択肢が多ければ、そのサイトに行けばほとんど何でも手に入れられる。物々交換のサイトならば、中古品店に売るよりも良い取引ができるかもしれない。
そうなってくると、物がどんどんお金に近くなってくる。流動性が増してくる。何を買うにも使えるお金は便利だけど、将来、ネットを介した物の交換がお金の代わりになり得るのだろうか?

クリティカル・マス」にはジレンマがある。どんなサイトも始まりは0人。そこからどうやって人を増やせばいいのか?

一つの方法は身内や友達を集めること、あるいはネットを介した知り合いに来てもらうこと。こう考えると、シェアの仕組みをスタートするために、評価や社会資本が便利だということが分かる。

「余剰キャパシティの利用」

余剰キャパシティの利用は、自分にとっては必要がない所有物や土地、時間などを他の人に分け与えるということだ。誰にだって押し入れには使わなくなったおもちゃや工具、壊れたカメラなどがあるだろう。その眠った資源を活用するということができるようになってきた。物だけでなく、農園、人を雇うほどでもない翻訳などの小さなタスク、使っていない間のPCのCPUなど、いろいろある。
いかに使われていない資源を見つけるのかというのが、おもしろい所だと思う。これは実は日本人が得意な部分なんじゃないかな。

「共有資源の尊重」

経済学にwikipedia:コモンズの悲劇という言葉があるように、公園や公衆トイレなど公共の物には誰も所有権がないがゆえに、ただ乗りwikipedia:フリーライダーの問題が出てくる。つまり、人は自分の物ではないと思うと、大切に扱わなくなるのだという。

しかし2012年6月12日に亡くなったwikipedia:エリノア・オストロムによると、日本の里山のようなコミュニティの中での自己管理によって、コモンズの悲劇を乗り越えることができるそうだ。政策最新キーワード|オストロム教授のノーベル経済学賞受賞
そのためには従来の経済学ではあまり考えら得れていなかった、当事者によるモニタリングとルール違反者に対する処罰ルールで、コミュニティ内にフリーライダーが増えるのを防げばいい。

ウェブサイトで使うID制度と相互の評価によって、同じことが可能かもしれない。

「他者との信頼」

フリーライダー問題への対処として、相互監視と処罰ということが考えられた。
しかし正直に言って、ネットによってこういった形の他者への信頼が増大していくかどうかは分からない。
なぜなら現状のネット界隈を見ても、大学生が飲酒したというツイートが出回って大学で問題になるなど、相互監視が悪影響を及ぼしているようにも見える。

コミュニティや市場では、相互監視と処罰だけでなく退出というメカニズムがある。不満がある人や、規則に従わない人をコミュニティから退出させることができる。
ここで今ネットで広がりつつある実名制度のことを考えると、実名ではIDと比べてコミュニティから抜けることが実質できないという問題がある。オンラインで登録したIDならば、コミュニティに合わない人の登録を解除してコミュニティから追い出すことができる。当事者本人がそう望むこともあるだろう。
しかし実名ではおそらくそれが一生ついて回る。コミュニティから抜けるという選択肢がないわけだ。したがって処罰や悪い評価はその人の人生に全面的に影響する。

そういう意味で、今広がっているシェアの流れが今後どうなっていくかは、「他者への信頼」ということが一つの大きな問題になると思う。
ネットは果たして信頼を増大させるのか。

岡田斗司夫さんが最近精力的に広めようとしている考え方が、「評価経済」だ。ネットを介したつながりの発達によって、これからの十何年かでこれまでの貨幣経済に加えて、人への評価というものが重要になってくるということだ。

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている


でも考えてみると、人への評価とは人脈とは違うのか?近代以前のお金によらない経済とどう異なるのか?さらに言うとそれは良い未来なのか??
定義があいまいな分たくさんの疑問が沸く。

しかし今関心があるのは、最近進んでいるネットでの実名主義と評価経済との関係だ。

実名主義と公平性は両立しない

では現在ネットで広がりつつある実名主義の中で、お金に匹敵するくらい公平な評価システムが作れるだろうか。
人間関係だけではなく、人種、性別、年齢、出身地などが違ったとき、「いいね!」ボタンを押そうとする気持ちに変化があるのなら、評価経済はむき出しの偏見や差別を評価として一挙に受け入れてしまう。

そもそもネットに限らず、スポーツのジャッジにしても作品の批評や金融業界の格付けにしても、評価される側と評価する側の利害関係をできるだけ無くすことが、公平な評価のために必要なことである。
そういう意味で、生産者と消費者が一致し、評価する側とされる側のどちらにもなれるというネットの特質は、実は評価に向かないのではないか?
少なくとも匿名という保護機能なしには。

お金の匿名性と公平性

お金はそうではない。お金の本性は究極の匿名性と言えるかもしれない。スーパーで今日の夕飯の買い物をするとき、払ったお金は実は近所の嫌な隣人から回ってきたのかもしれないし、オタクやDQNからかもしれない。また、もしかしたらトムクルーズが来日したときに使ったお金だったかもしれない。

お金はその匿名性と、原則的にはそれを使えばほとんど何でも買えるという特性がある。これがいわゆる貨幣の流動性の根拠だ。
またその匿名性ゆえに、自分の評価を反映させることができる。大きな製氷機能つきの冷蔵庫が欲しいならば、買えばいい。その金額と選んだ選択肢が一種の投票となって、経済の一部を動かす。それがさらに人々のインセンティブを少しだけ動かすことになる。お金を使うというのは一種の選挙とも言える。そしてその選挙をもとに、生産者は生産量や製品の質、機能を変えることができる。

実名主義フェイスブック

フェイスブックを眺めていると流れてくる友達からの投稿。たとえば今日のご飯やなんと言うことのない風景の写真。ぼくはまるで義務のように「いいね!」を押すとすぐさま他の所へ目を向ける。
実際多くの人が同じようなことをした覚えがあるのではないかな。

「いいね!」ボタンはネットの世界で最も流通している評価貨幣だと言ってもいい。評価経済と聞いてまず思い浮かぶのはこういう形の可視化された評価だ。それがもし本当の人々の評価を表してくれるなら、たしかに一つの指標として良いかもしれない。googleページランクも似たようなものだ。

しかしフェイスブックの特徴である実名主義では、ぼくたちの本当の評価ではなく現実世界の人間関係、癒着、見栄などを同時に引き連れてしまう。その結果評価がゆがんでしまう。

コミュ障こそが群れを作る。あなたは一人で食事ができますか?




【教育】 大学生に「コミュニケーション弱者」多く…学食にお1人様用席、学園祭は参加強制、グループワーク必修で男女の出会い作り

・2chのスレに釣られるのもどうかと思うけども、「軍人勅諭」「社会人」「常識」「ポア」「反動的」と同じように「コミュニケーション能力」という言葉も、同じような使われ方になっているようだ。

こういった言葉がどう同じかというと、言葉を使うシチュエーションやキャラはみんなが共通認識として持っているのに、具体的な内容についてはそれぞれが勝手に定義して使い出すことができてしまうということだ。 言葉を使う側は、ただよく知っているキャラクターになりきって「社会人」やら「常識」というフレーズを使いながら、好きなように好きなことを語ることができてしまう。

さらにこういう言葉は権威者として話すものなので、いったん自分勝手な定義で使い出すと、実際には一般的ではないし、他の組織に行くと通用しないものなのに、まるで普遍的な真理かのように組織内に広まってしまう。他の組織では違う定義でしゃべっているから、同じ言葉を使っていても、実際には日本中でバラバラな事を言っているわけだ。同音異義語が無限に増えると言ってもいい。

その結果として、組織の硬直化と組織の間での人の流動性がなくなることになるだろう。それがまさに今の日本的組織の問題でもある。


・そういうわけで、「コミュニケーション能力」という言葉についてもそれぞれが勝手に定義して使い出していることはよくない状況だと思う。2chスレを見ると、一人飯の話題が圧倒的に多い。学食に行けば一人飯をしている人と大勢でグループになって食事している人を見かけることがよくある光景だ。
そういう体験からかもしれないけど、2chのスレでは「一人飯=ぼっち=コミュ障」で、「グループで食事=リア充=コミュニケーション能力がある」という風に思っている人が多いようにみえる。

でも本当にそうか?実際には一人飯をする人には、一人で食べることが「できる」という人間と仕方なく一人で食べる「しかない」人間がいるだろう。グループで食事している人にも、みんなで食事「したい」からみんなと一緒にいる人とみんなで食事する「しかない」人がいるだろう。
要するに、グループで食事していると言っても、必ずしもやりたくてやっているわけではない。これを「キョロ充」なんて言う言い方もあるようだ。

もっと言うと、そういういわゆる「キョロ充」はなんで一人になるのを恐れるかというと、一人で食事しているところを見られたりなんかしたら、グループから見下されたり場合によってはグループからハブられることを恐れているからだと思う。


・そこで問題なのが、果たして一人で食事している人とグループで食事している人、どちらがコミュニケーション能力に欠陥があるかだ。

さっきのキョロ充のことを考えると、いったん一人で食事するともう仲間からハブられるようなグループもあるわけだ。「コミュニケーション能力」というものを、外部の人に対して情報共有することという意味で捉えると、いったんぼっちになるとハブるグループというのは「コミュニケーション能力」が欠如していると言ってもいいのではないか。

「コミュニケーション能力」というものを、内側の仲間が馴れ合うという意味でとらえるならば、もちろん能力があると言ってもいい。でも、そういった能力に長けたグループは、できれば北朝鮮や中国といった、内向きの共産圏に行けば活躍できるだろうし、その方が日本にも共産国にとってもメリットだと思う。


・一方、なぜぼっちがぼっちのままでいるのかというのも問題。外向きの「コミュニケーション能力」があるグループならば、一人で食事している人にしゃべりかけて仲間に入れればそれで済む。もちろん一人でいる人がよっぽどコミュ障なら無理だろうが、実際にはそういうぼっちの人に話しかけて仲間に入れることができるグループがどれくらいいるのか。

そういうわけで、「コミュニケーション能力」と言っても少なくともそれが社会にとって望ましい性質であるとするならば、外向きのコミュニケーション能力でないと意味がない。むしろぼっちがいる状態で何もできなかったり、そういう人を見下すだけになっていることが、「コミュニケーション能力」の欠如の表れだと思う。

外向きのコミュニケーションができる人や、そういうグループならば一人で食事していようが関係なくグループに戻れるだろうし、一人飯の人に話しかけることもできるだろう。そういう意味でリトマス紙になりそうな質問がある。

「果たしてあなたは一人で食事ができますか?」