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主張とアンチテーゼ:倫理的懐疑主義の区別




哲学や真理について考える人がまず初めにぶち当たるのが懐疑主義だと思います。ここでは人間の真理を認識できるかどうかについての懐疑主義を対象とします。懐疑主義にはいくつかのバリエーションがあり得ますが、ここでは弱い懐疑主義と強い懐疑主義に分けます。

弱い懐疑主義は、「人間が真理を知ることができるとは限らない」という主張です。これは一種のアンチテーゼだと言うことができます。「人間には真理を認識することができる」と言う主張に対して、いやそうとは限らないと言っているわけです。このように相手が「すべて」とか「絶対」という形で主張をした場合、そのアンチテーゼを立証することはとても簡単で、「少なくともひとつでも例外がある」ということを示せば良いことになります。このお手軽な懐疑主義を、弱い懐疑主義と呼ぶことにします。

一方で強い懐疑主義は上とは全く逆の形になります。強い懐疑主義は懐疑の結果、絶対的な結論を得たもので、「人間には絶対に真理を認識することはできない」という主張です。弱い懐疑主義とは逆に、こちら側に「すべて」や「絶対」といった性質が持ち込まれていることに注意が必要です。だから弱い懐疑主義とは違って、強い懐疑主義を立証することは、とても難しくなります。実際、人間が真理を認識することの不可能性を示すには、過去から未来に渡って、あらゆる真理を知る可能性が存在しないということを立証しなければなりません。逆に強い懐疑主義のアンチテーゼの立証はとても楽です。過去から未来のどの一点でもいいから、真理を認識する可能性がたった一つでもあれば、アンチテーゼは成立します。
つまり、弱い懐疑主義と強い懐疑主義は、立証に必要な量がまったく逆になっています。弱い懐疑主義は「少なくともひとつ」でも立証できればそれでよく、強い懐疑主義は「すべてについて当てはまる」ということを立証しなければなりません。そしてそれぞれのアンチテーゼはその逆であるということです。

2つの懐疑論の違いを混同すると、間違った推論をさもそれらしく作り出すことができてしまいます。
例えばメタ倫理学では、倫理の不可知論という立場があります。これは事実から価値を導くことができないという「自然主義の誤謬」から来ることが多いようです。客観的な科学から事実を知ることができますが、逆にいうとそれによって価値を知ることはできないというものです。
しかしこの不可知論においても、「すべて」と「少なくともひとつ」を混同しないようにしなくてはなりません。そのために弱い不可知論と強い不可知論を分けます。

弱い不可知論は、「事実から価値を完全な形で知ることはできない」という主張です。完全ではないと言うためには、100パーセントではないと言うだけで良いので、立証するためには1パーセントでも足りない部分を示せばいいので立証は楽です。
逆に強い不可知論は、「事実から価値を知る情報は一切ない」ということを主張します。この場合は、すべての事実に関して、価値への推論ができないということを示す必要があります。そのためには単に世界観や数学モデルを示すだけではだめで、「実際に」事実から価値を導けないことを示すことが必要です。

強い不可知論が妥当ならば、倫理に関することを科学やデータで議論することは全く意味がないと言うことができます。つまり事実に基づく倫理的な議論をすべて無意味だとして捨て去ることができます。しかし弱い不可知論ならば、これが妥当だとしても、科学的事実に基づいて倫理を語ることの意義は残されています。たとえばアンケート調査や社会制度分析、心理学や脳科学を使って、100パーセントでなくとも、ある程度の妥当な価値的結論に達する見込みは残っています。

この2つの不可知論を混同することで、立証部分は弱い不可知論を用いて、その結論は強い不可知論を用いるということを時々見ます。これを避けなければ、議論に破壊的な影響を与えてしまうと思います。

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